性ホルモンが大脳でも合成されていることを発見

定説覆す成果。記憶の解明や痴呆治療に光
川戸 佳
(かわと すぐる)
(東京大学大学院総合文化研究科 教授)
戦略的創造研究推進事業 研究領域「内分泌かく乱物質」研究代表者
男性ホルモンや女性ホルモン、副腎皮質ホルモンはいわゆるステロイドホルモンで、精巣や卵巣、副腎皮質でつくられています。ところが、これらのステロイドホルモンが大脳の記憶中枢でもつくられていて、記憶学習の強化や抑制に重要な役割を担っていることが東京大学大学院総合文化研究科の川戸佳教授らの研究によって明らかになってきました。女性ホルモンを補充するとアルツハイマー型痴呆が改善するなどの臨床報告もあることから、研究の成果は近い将来、記憶の解明や痴呆の治療、記憶学習能力の改善などにつながることが期待されます。
ねらいと背景
「脳では合成されない」がこれまでの学説
 人や哺乳類などの脳には、「海馬(かいば)」と名付けられた神経核(神経細胞から次の神経細胞に情報を伝達する連結部=シナプス=が密集している部位)があります。海馬は、記憶学習を司る中心的な器官と考えられています。脳内でのステロイドホルモンの合成が見つかったのはこの海馬においてです。
 ステロイドホルモンが海馬に深く関与している、あるいは関与しているらしいということは以前から知られていました。しかし、神経内分泌学のこれまでの学説では「ステロイドホルモンは脳内では合成されず、精巣や卵巣、副腎皮質で合成されたものが血流に乗って脳に運ばれてきて、それが作用しているのだ」と説明されてきました。
 ところが、川戸教授は、そうは考えませんでした。ステロイドホルモンの脳内での作用は極めて速く、局所で作用します。「脳内でつくられているに違いない」。そう信じ、この仮説の立証に挑戦しました。
 しかし、脳内におけるステロイド合成の解明は、極めて難しい課題です。主な理由は2つあります。1つは、脳は一種の油(脂質)の海であり、コレステロールから出来るステロイドも同様に油(脂質)なので、抽出が難しいこと。もうひとつは、脳内ステロイドは極めて微量です。脳内ステロイドの濃度はppb、つまり10億分の1のレベルなのです。
 川戸教授らはこの抽出、分析を可能とする手法と技術を開発し、ついに仮説の立証に成功しました。

女性ホルモンが記憶学習の強化や抑制効果をもたらしていることを
明らかにするのに用いられた電気生理装置
内容と特徴
極微量分析の手法駆使して突き止める
 生体の触媒である酵素に「チトクロムP450」と総称される一群があります。精巣、卵巣、副腎皮質には、このチトクロムP450があり、出発原料のコレステロールから性ホルモンをはじめとした各種のステロイドを合成しています。
 川戸教授らは、大人の雄のラットの脳から海馬を取り出し、極微量物質の分析手法を駆使して以下のような事実を突き止めました。
 @海馬の神経細胞にチトクロムP450が存在し、しかもそれらは神経細胞間の連接点であるシナプスに局在しているA海馬でのその量は、精巣や卵巣の1/500〜1/1000程度であるBチトクロムP450の存在により、精巣、卵巣、副腎皮質で起きているのと同じステロイドホルモンの合成が海馬でも起きているC酵素反応の最終段階で男性ホルモンから合成される女性ホルモンは、神経が活動する時にのみつくられる。
 つまり、チトクロムP450の存在下で、海馬の神経細胞内で性ホルモンなどのステロイドホルモンが合成されていたわけです。
 川戸教授は「海馬の神経細胞で合成される脳ニューロステロイド※1は、シナプスで局所的に作用し、シナプスで伝達される信号の強さ、結びつきなどを調節する神経伝達物質として働いている」と見ています。また、「海馬のような脳の高次機能を担っている部位では、性ホルモンとしてではなく、神経成長因子として機能している」とも語っています。同じホルモンでありながら、部位によって役割はまったく違うわけです。

※1:脳で合成されるステロイドホルモンを、精巣、卵巣、副腎皮質などで合成されるステロイドホルモンと区別して、脳ニューロステロイドと呼びます。
神経細胞とシナプスの模式図

展望
環境ホルモンの洗い直しにも貢献
 この成果は、戦略的創造研究推進事業における「脳ニューロステロイド作用を撹乱する環境ホルモン」というテーマの研究で得られたものです。つまり環境ホルモン研究の一環でもありました。
 環境ホルモンは、環境中に放出された人工の化学物質が生物に性ホルモンのような作用をし、魚介類では性転換などを引き起こすというものです。最近、環境ホルモンと呼ばれている化学物質は魚介類に性転換を起こすものの、哺乳類では肝臓で解毒されてしまうことがわかり、環境ホルモンの洗い直しが行われています。
 しかし、環境ホルモンは肝臓で解毒されて性ホルモンとしての機能は失われても、脳に取り込まれて作用する可能性があります。つまり、脳ニューロステロイドとして脳の神経伝達を撹乱する恐れがあるわけです。川戸教授らの研究は、環境ホルモンのこうした影響を明らかにするとともに、作用メカニズムの解明や作用物質(内分泌撹乱物質)の特定などに役立つ他、ステロイドホルモンによる記憶学習への作用を活かしてアルツハイマー病やうつ病などの治療への応用が期待されます。
研究者のコメント
「性ホルモンが海馬でつくられているに違いないと信じ、ひたすらその解明に頑張ってきましたが、三振かホームランか、どっちに転ぶのか分からない研究に資金と学生を投入するのには、正直大きな決断がいりました。メカニズムを詳細に解明して行くことが今後の課題ですが、脳の研究には優秀な学生が集まってきます。引き続き、よい成果が挙げられると期待しています」